ゑれきてるエッセイ <わたしのこの一冊>

加藤周一『羊の歌』と計算機科学 (株)東芝 顧問 吉田信博

[終] 新しいプログラミング言語

 未熟な言語は、成熟した言語に比べ語彙が少なく、統辞規則が不足している。

 プログラミング言語は、黎明期には、計算機は、数値計算をするためのシステムであり、膨大な量といえども、綺麗に並んだ数値列−ベクター列―を処理できればよかったが、その後文字列を処理し、数式を処理し、複雑な構造を持った事務データを処理するためには、これらを記述するための概念が整理されねばならず、また、そのための統辞規則が本来あるべきである。現代では、音楽データ、画像データ、動画データなど、それまでには無かったデータを扱うようになれば、新たな概念が必要となるだろう。「新しい酒は新しい革袋に」。

 確かに、新しく、複雑な概念を簡潔に表現できることは強力な道具であり、これを正しく用いれば正確で豊かな表現ができるに違いない。また抽象度のレベルが上がれば、瑣末なことに煩わされることがなくなり、より発想が自由になり大きく広がるだろう。

 しかし、言語はあくまで道具であり、それ自体が何物かを生み出すわけではない。

 加藤は「文化」について以下のように述べている。(以下『続 羊の歌』岩波新書より)

 パリの街、空間を歩きまわって、「おそらく私はそこに―外在化された、すなわち感覚的対象と化した一個の文化の核心を見ていたのだろう、としかいうことができない。その核心は、おそらく12世紀の頃から確かなつながりを以て今日まで生きのびて来ていたにちがいない。」12、3世紀の教会建築とセーヌ両岸の街と「そのどちらにも、私は何らかの内的衝動を感覚的秩序のなかに外在化しようとする強い意志の発現を、感じた。」(54頁「第二の出発」)

 また、
 「つまるところ高田氏は、その全存在をかけて、いつも同じひとつのことをいっていたように私には思われる。文化とは「形」であり、「形」とは外在化された精神であって、精神は自己を外在化することにより、またそのことのみによって、自己を実現できるものだということ。」(82頁「中世」)

 ここで言う「外在化」とは「感覚の対象と化す形式をもつ」ことを意味し、これは在仏の彫刻家・高田博厚との長い対話の中から得た造形的世界と文化全体に対する、彼の結論である。

 自分自身の内部に留まっている精神の・理性の・感性の成し遂げたものを形あるものとして、実世界の中に残すこと――ギリシャ彫刻からガウディの修道院まで、エジプトのピラミッドからジャコメッティの塑像まで―。これは造形芸術・建造物には限ることなく、ほとんど人間の創造的活動の本質そのものである。
 さらに音楽、舞台芸術、文芸作品にとどまらず、高度な訓練を受けた知性による作品は、それが現代建築であろうと、工業製品であろうとも、そこには、強い精神の外在化への欲求がある。最先端技術によって微細化された半導体製品であっても、そこには、研究者が考え抜いた構造があり、光の波長限界によって分解能を超えたナノの世界は、生物学的な感覚の対象の、遥か遠くにあるが、特殊計測器とスーパーコンピュータによって計算され、描き出された世界には、研究者の感覚の対象と化した確固たる形が存在する。これは万人の感覚の対象となりうる物ではないが、普遍的なものである。普遍的なものが常に万人向けとは限らない。それらは別の二つのものである。

 われわれは、表現者として、創造者として、表現すべきものを明瞭な形で意識し、それを感覚の対象として堪えうるほど堅固なものとして、既存の枠を超えて表現したいという、強い意志を持つことが必要である。この要求が、新たなる計算機科学の発展につながるに違いない。(よしだ のぶひろ  執行役常務としてパソコン関係の統括技師長、東芝グループ全体の技術戦略策定を担当する技術企画室長等を歴任) <2010.09>

(了)

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