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Presented by 『ゑれきてる 2000 第77号』

知識工学と哲学

オントロジー工学は哲学から何を学べるか Chap.1

溝口 理一郎 黒崎 政男

溝口 理一郎
Riichiro Mizoguchi

大阪大学
産業科学研究所
教授

大阪大学産業科学研究所教授。1948年生まれ。著書に『人工知能 新世代工学シリーズ』(オーム社 共編)、『エキスパートシステムI, II, III 』(朝倉書店)、『知的CAIシステム―知識の相互伝達への認知科学的アプローチ―』(監訳)など。現在の研究テーマは、1)オントロジー工学に基づく新しい知識処理、2)機能知識を中心とした設計知識の体系化、3)Knowledge managementを指向した先進的教育・訓練システム、4)オントロジー工学に基づく知的技術文書管理。

黒崎 政男
Masao Kurosaki

東京女子大学
文理学部哲学科
教授

東京女子大学文理学部哲学科教授。1954年生まれ。書に『哲学者はアンドロイドの夢を見たか』(哲学書房)、『となりのアンドロイド』(NHK出版)、『カント「純粋理性批判」入門』(講談社メチエ)、『コンピュータに何ができないか』(共訳 産業図書)など。現在の研究テーマは、1)カント哲学研究、2)人工知能、3)電子メディア論。

知識の再利用などの基本的な問題を抱える知識ベース。
オントロジー工学は人間と世界との関係を改めて考察することによって
知識工学の革新をめざす。
存在論、認識論の本家である哲学は支援できるのだろうか。

チョムスキーは言語運用より言語能力に焦点

<溝口>
オントロジー工学についてお話しする前に、その背景としてエキスパートシステムの現状について簡単にふれておきます。今のエキスパートシステムは対象が限定された狭く特化したシステムであれば、ある程度の成功率で使えるものを作れます。問題は、そのシステムを使い続けることが難しいことです。たとえば、プラントの故障診断システムでも、対象になるプラントの構造などが変わっていくことがあるわけですね。それに合わせてシステムをメンテナンスする必要があるのですが、それにコストがかかってしまう。その理由は、結局、「知識をコンピュータで扱うのは難しいね」ということになるんです。これがいわゆる知識ベースの抱えている問題です。

<黒崎>
狭く深くしておかないと、実用的なエキスパートシステムはできないのだけれど、フレキシビリティがない。そのフレキシビリティは人間の方でメンテナンスという形で対応しなければならない。

<溝口>
そうなんです。メンテナンスが必要というのは、対象が変わったら知識も変わるという面と、知識の再利用ができないという面もあるのです。一度作った知識ベースだから、修正するなら、新しい知識を加えて、古い部分は使いまわししたいのですが、それが難しい。人間から見たら共通性があるように見えるのですが、実はその知識は特化していて使いまわせない。

<黒崎>
哲学で、あらゆる事物に対して適用できる唯一の真理の基準があるのかという問題がありますね。

<溝口>
ええ。

<黒崎>
基準は1つだけの方がいいわけですが、それはあらゆる対象に妥当しなくてはならないから、非常に表面的なものになってしまう。逆に個々の対象に深く真理として関与するためには、ほかの対象と区別されなきゃならない。したがって非常に個別的なものになる。だから、有意義な真理の基準は個別的であり、個別的になると一般基準にならない、というジレンマに陥ってしまう。

<溝口>
ああ、哲学にも同じような問題があるんですね。

<黒崎>
エキスパートシステムも、深く極めれば極めるほど役に立つけれど、少しでもずれると役に立たないということですね。

<溝口>
そうですね。そこを何とかしようということで、対象世界の存在そのものまで問題にしようという、哲学の存在論、オントロジーから名前をとってオントロジー工学という動きが起こってきたわけです。特定の問題だけを解くことに集中するのをやめて、もう少し汎用性がある、ベースになるようなものを、しっかり考えようということです。結局、知識というのは、世界を人間がどう理解したかということですから、対象世界を客観的に見るという動きをしてみようと、これがオントロジー工学が現れてきた背景なんです。

<黒崎>
ああ、わかりました。すごい野望ですね(笑)。

<溝口>
いやあ、おっしゃる通り野望、野望ですね。

<黒崎>
僕は、それはまさしく哲学の真理の基準の問題だと思いました。うまくいくかどうか別として、ねらいはわかりました。

<溝口>
多少は哲学者の仕事を勉強させていただいて、客観的な存在物、対象世界というものを眺めて、それをベースにして、その上に知識を積んでいくときには、どのようにして積んでいけばいいのだろうかということを考えていきたいわけです。これは結局、知識の再利用性にかかってくるわけです。一般性、共通性があるものが、再利用できるわけで。その個別性と普遍性の兼ね合いを深く考え直してという感じですね。

<黒崎>
もう少し汎用性のある、しかし本質をとらえた構造を抜き出してくれば、なんとかなるのではないかというわけですね。

<溝口>
その通りです(笑)。

認知言語学が抱えるジレンマ

<溝口>
チョムスキー以降の、認知言語学など、これからの言語学と自然言語処理との関係はどうなって行くと思われますか。

<黒崎>
チョムスキーの大前提は、他の人間の能力と独立したものとして取り出すことができる言語能力が存在するということですね。それに対して認知科学の学際的な研究は、実は人間の言語というのは、人間が世界を認識するために使っている一つの手段で、他の視覚とか聴覚などとむしろ密接に関係しあっているのではないかととらえるわけです。言語能力は一応独立しているかもしれませんが、その独立性をチョムスキーほど打ち出さないような理論として認知言語学が出てきたと言えると思います。

その研究はそれなりに進んでいるわけですが、やはり形式化の問題が出てきて、こういう現象はこういうモデルで説明できるというんですが、そのモデルが本当に存在するのかどうかという所の決定的な証拠を示すことはなかなか難しくて、方法論的な難しさを抱えているのも事実です。

<溝口>
コンピュータ・サイエンスが認知科学に多いに期待していることの一つは、今おっしゃったモデルが出てくるのではないかということです。それが今言われたように、認知言語学ではそのモデルに難しい所がある。今の認知言語学の流れの所で思い出しましたのは、人工知能の研究に昔からある楽観論と悲観論です。楽観論では知能のモジュール一つひとつが比較的独立していると考えます。独立したモジュールを一つずつ作っていって、それらを集めることで、人間に近い形になるのではないか、というのが楽観的な見方ですね。

一方、独立したモジュールはありえない、人間というのはトータルな存在であるという見方があります。画像認識ができた、強いチェスのプログラムを作ることができたということを単に集めても、人間の認知の本質を理解したことにならないという考え方ですね。いくらチェスが強くなっても、これらのモジュールが独立してあるわけではないので、単純にモジュールを寄せ集めてもトータルな人間としての人工知能ができたとはいえない、これがどちらかというと悲観的な見方です。

過去、人工知能の研究はこの楽観論と悲観論を行ったり来たりしているわけです。今、認知言語学は、独立したモジュールだけで考えるのではなくて、他とのつながりを考えようとしている。しかし、モデル化しようとすると、そこである程度モジュール化せざるをえないというジレンマがある。この辺をどう解決していくかというのは、永遠の課題ですね。

<黒崎>
言語学でも、言語を統語論、意味論というように、いくつかのモジュールから構成されていると考えるのが一般的ですが、実際にはそのモジュールが相互に関連していて、独立して働いているわけではないと考えられています。なんらかの形で自然言語処理を行うためには、最初に形態素解析、次に構文解析、それから意味解析という手続きを考えてしまいますが、実際に人間はそういう風には言葉を理解していない。手続き的な順番を考えてしまうのでは、人間が行っていることを、素直に反映したモデルにはならない。じゃあどうすればいいかという所があって、それは自然言語処理の課題というよりは、認知科学全般の課題ではないかと思います。

<溝口>
あるいはコンピュータ・サイエンスの分野でいうと、人工知能の問題ですね。言語学の方からご覧になって、ハルが実現できないのはなぜだと思われますが。

<黒崎>
普通ハルのような計算機を作れないのは、計算機は人間のように文脈が理解できないからだ、といわれますね。計算機上で文脈処理をやらせようとすると、参照しなければならない情報があまりに多くなりすぎてしまう。あるいはもっと大事なのは、その情報の中には場面によっては無視してもいいかもしれないものもあるのに、どれを無視していいかわからない。どういう場面で、どういう情報を参照し、無視していいかということを、予め決めておくことができない。私たちが話をしたり、理解できるのは、おおまかな所、こんなことを言っているのだろうという判断ができるからですね。それがある意味では、人間の知的な能力なのでしょうが。こういうあいまいなことは計算機にはできない。それは、人間が持っている知性を計算機上でなぜ実現できないのかということと、ほとんど同じ問題ですね。

<溝口>
コンピュータは記号を処理するマシンですが、仮に人間の持っている知恵とか知識を記号で表現できて処理できたとしても、それで人間の知的な活動がすべて説明できるかという問題と、ほぼイコールの問題ではないかということですね。

<黒崎>
そうですね。

哲学に直線的な進歩はない

<溝口>
その普遍性の問題で、各人各様の世界観があって個性があるのに、より多くの人が理解して共有してくれるような見方はあるのですかというご質問をよく受けるのです。もし、哲学者がそういう質問を受けたら、どのようにお答えになるか、興味があるんですけれど。

<黒崎>
えーっと。それはもう絶望的じゃないでしょうか(爆笑)。やはり哲学者は各人各様の哲学がそれぞれあるだけだっていうふうに・・・

<溝口>
なってしまうわけですか?

<黒崎>
ええ、なりますね。だから、それは、たとえばですね、数学の歴史とか、まあ科学の歴史というのは、ある種積み重ねの上に進んでいきますよね。18世紀まではそうだったけど、20世紀はこうなってというように、まあ、パラダイム論がありますが、一般的には積み重なって進歩していく・・・

<溝口>
そうですね。

<黒崎>
哲学はですね、そういう直線的な積み重ねがないのです。もちろん、プラトンがいたからアリストテレスがいる。アリストテレスがいるからトマスもいる。トマスがいるからカントがいる、ということはあります。しかし、だからといって、積み重なって進歩してきたのかというと、そんなことはないわけです。もしかしたら、プラトンの思想は素朴だけど、今、一番本質を突いてるんじゃないかとか、あるいはトマス・アクイナスが最高だと思うとか、やっぱりデカルトでしょうとか。僕はライプニッツくらいがすごいと思っているんですが、哲学は決して、時間の経過とともに進歩しないんですよ。

<溝口>
なるほど。カントよりハイデッガーが偉いってことはないわけですね。

<黒崎>
まったくないです。そんなことはありえないです(笑)。ここでむきになるからすごいですね。ありえないです。僕はたとえばヘーゲルの方がハイデッガーよりずっと本質を最初から見抜いて、それをハイデッガーが後から追っかけたなあと思ってるくらいです。

<溝口>
そうなんですか。

<黒崎>
どう考えても、ただバラバラになっていくだけで、何か1つの哲学に収れんするなんてことは、一切ありえないです。

<溝口>
そうですか。困ったな、そうやって開き直られると(笑)。

<黒崎>
いや、開き直ってるのではなくて(笑)。事実を言ってるのです。

<溝口>
いえいえ、失礼失礼、恐縮です。

<黒崎>
昔はですね、唯一の真理なり、共通の普遍的な構造なりがあって、それを誰が見つけるかという感じで物事が進んでいたのです。たとえば世界は神が保証していたものであるとすれば、唯一の実在があって、そこになんとか近づこう、それをどうやって知り得るだろうかという形で、西洋思想は進んできたわけですね。ところが、神様はもういらない、われわれ人間は神から独立するんだというような啓蒙主義あたりからですね、根底的な権威を失っていきますから。ではわれわれが見ているのは本当に唯一の真理と言えるのだろうか、唯一の実在と言えるのだろうかというところに、どんどん疑いが生じ始めてくるわけです。そして、そういう唯一の実在とか、唯一の客観とか、共通した真理などというのは、ないんだというふうに、壊れてきたのが哲学の歴史です。

<溝口>
そうですね。ある意味でそうかもしれませんね。

<黒崎>
お話をお伺いしていると、その普遍性とか客観というところが、アルファでオメガじゃないでしょうか。もしもその普遍性、客観性が見出せるんであれば、それはいいですよね(笑)。

<溝口>
いいですよね、いいですよね(笑)。

<黒崎>
それは哲学の歴史が証明しているように、ますますその合意形成は難しくなっているわけです。だから、オントロジー工学をいろいろな哲学を使いながら提出してみても、皆さん、「うん」って言ってくれない、それは当然のことじゃないでしょうか。

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